2012年4月4日水曜日

〜松山冒険遊び場の遊び場報告です♪〜


「遊育」という言葉をご存知でしょうか?

私は子育てには「教育」も大切だけど、「遊びながら育つ」ことも大切で、そのことを社会があまり重要視していない事に長年疑問を感じてきた。

子どもが自分のやりたいことを思い存分体験する場に遭遇した時の目の輝き、発想炸裂の行動力、真剣で真っ直ぐに進む勢いのようなものが自発的な「遊び」の中にはある。

その半面、危かしいこととか、人に迷惑をかけること、一般常識では考えられないことなども発生する可能性を含んでくるので、大人はそれを止めようとする場合があるが、固定化した大人の頭では想像できない子どもの行動にはいつの時代も未来を変える可能性が秘めているのではないだろうか。

今年の4月か ら大学に通う我が息子も子どもの頃は冒険心が旺盛で、小学校1年生の頃は20分で帰ることのできる道を毎日1時間かけて帰ってきた。親としては心配で、ある日息子が帰る通学路でそっと後をつけてみた。息子は学校帰りの道端の電信柱に登ってみたり、木に登ってみたり、通学路とは違う迷路のような裏道をわざわざ通り、家まで帰ってみたり、いきなり友達と道端でジャンケンごっこしてみたり・・・

終わることのない「遊び」の連続に、感心しながら後をつけていたことが、今は懐かしい思い出となっている。

子どもにとって、日常生活自体が「遊び」なのだと思う。その中で、どうしても人に迷惑をかけてしまうことや、社会に出た時にどう考えてもやってはいけないと思うことは、どうしてその行動をやってはいけな� �のか、「やっていい時」と「やって悪い時」があるんだったらそのことも教え、伝えていくことが躾なのではないかと思う。
子どもが何もアクションを起こしていない、又は起そうとしている状態で、いきなり頭ごなしに「だめ!何してるの!そんなことしちゃダメなのにどうしてわからないの!いい加減にしなさい!」なんて押しつけ的に禁止する親御さんもいるけど、それは子どもの人権を無視しているとしか私は思えない。子どもも大人と同じ人権があり、平等に接してもらう権利がある。それが他人の子であっても同じである。


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そして、一番最悪なことは、大人が子どもに怒ったことを、大人が子どもの前で平気でやってしまう行動である。

例えば、子どもには寝る前に「歯を磨きなさい」と言うのに、大人は磨かないとか、子どもが宿題をしないことに腹を立て、「宿題しないならテレビ消すよ!」と怒っておきながら、大人は子どもが子ども部屋に行ったとたんテレビ見て部屋も片付けず夕食も作らないとか・・・。日常の大人の姿を子どもはしっかり見てるのだ。

「大人は子どもの鏡」とはよく言ったものである。

「教育」は重視するのに、「遊び」は重視しないと捉える考えは、第2時世界大戦以降の高度成長時代に「一流大学」⇒「安定した高収入」⇒「幸� �な人生」が定着化しているからかもしれない。
しかし子どもにとって「遊び」はいつの時代も生きることそのものである。そのことを理解せずに子育てに関わることは多かれ少なかれ子どもの心に歪をきたすことになるのではないだろうか。

また、「遊び」を子どもの発達段階にとって重要なことと捉えることができない人は、自分の固定観念で「良いこと」と「悪いこと」を決め付ける傾向にあり、子どもの遊びというジャンルを柔軟な視点から捉えることができなくなってしまうように思う。

人間というのは同じような性格の人ばかりではなく、100人いれば100の性格があると考えたほうが良い。そして、その人間が子どもの頃となれば、素直な心のままに生きる本性の状態であるわけだから、その子どもの行動が想像だ� �できないのも当然である。だからこそ「遊び」という行動の中から、その子どもの問題のところに気づいてあげて、「良くない行動」と感じるのであれば、諭すことが大切になってくる。それは日々行われることで、何度も伝えていかなければいけないことでもある。


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今の「教育」というジャンルの「躾」の考え方から言うと、その子どもが今後するであろう「悪い行動」パターンを未然に防ぐために、あらかじめ良くない行動はなるべくさせない生活環境を設定し、それでもあえてやりたがる子どもには行動予知時点で「叱る」又は「脅す」そしてそれでもやってしまったら、「罰を与える」。そして、その子どもに「今後絶対やらない」という約束をさせるパターンが多いように思う。

しかし、はたしてこの方法で子どもはその「やってはいけないこと」を本当にやってはいけないこと」と心の底まで感じてくれるのだろうか?

100人いれば100人性格が違うわけで、この叱り方をして「やってはいけない」と心の底まで感 じる子どももいるんだけど、100人全員が「やってはいけない」と捉えてくれると私は思えない。

現に、私はこのような教育のあり方に憤りを感じ子ども時代を過ごした一人である。

私以外にも、そんな教育のあり方に怒りを感じてきた人たちは昭和40年以降に生まれた世代にはたくさんいるのではないだろうか。

社会問題となっている、引きこもり、不登校、自殺、うつ的精神障害などはこうした社会の歪が未だに改善されず、ますます悪化している証拠ではないだろうか。

「良くないこと」を100人の性格の違う子どもたちができることなら100人が心の底まで理解することのできる社会であれば歪は起きないのではないだろうか。

その場合、方法は一つである。

一人一人の子どもを社会全体で地域に住む大人� �見守ることのできる社会が実現することである。

しかし、それは現実には難しい。

で、あればせめてなるべく多くの大人が子どもを見守ることができれば、歪は小さくなってくるのではないだろうか。

今は、子どもを見守る大人といえば「学校の先生」「親」「親戚の人」「塾の先生」「地域の人」ではあるが、実際はどの子どもも昔の近所づきあいの盛んだった昭和のような関わりはなくなってきている。

だから、やっぱり地域で子どもと関わって「子どもたちの遊び場」、そして子どもが思いっきり遊べる「冒険遊び場」、地域の人も関われる「プレーリーダー」常駐のプレーパークが必要なんだと思う。


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学校で「教育」、地域で「遊育」この二つがバランス良く存在する社会が必要なんだと思う。

※天野秀昭さんの本「子どもは大人の育ての親」の中にも、遊育のことが書かれているので、紹介します。

「遊育」のすすめ  〜生きる源泉〜 

「うちの子どもは放っとくと好きなことしかしない」という親の嘆きを、今まで何度も耳にした。

2児の父として、そう言いたくなる気持ちは分かる。が、よく考えるとやはりこの嘆きには無理がある。これは何も子どもに限ったことではなく、恐らく人は放っておかれたら好きなことしかしない。

放っておかれても自ら進んでやる。考えてみると、こ れはすごいことだ。お腹がすいたから食べる。のどが乾いたから飲む。これらが生理的反応として起こるように、精神的反応として起こるのがこの「放っておかれてもする」行為だ。それだけ人の「生存」の本質に近いところから生まれる欲求だと考えられるが、動機はと言えば単純に「やってみたい」と思ったからだろう。そして、それを「遊び」と言う。

ぼくは、過去に何度となく「あなたのしていることは、まさに『教育』ですね」と言われてきた。ぼくはそのつど「違います」と答えてきた。郵便屋さんごっこやお店屋さんごっこなど、遊びの中で字や計算を覚える子がいる。けれどたぶん、全く覚えない子のほうが多い。経済主義のこの社会ではそれでは困ってしまうので(文化が違えば困らない場合もある)、教育は必要 とされてきたとぼくは考えている。そうである以上、教育には子どもの意志とは関係しない大人や国の意志があり、何がしかの強制力が伴うと考えた方が無理がない。けれど、遊びはそうではない。本人の「やってみたい」と思う気持ちがすべてで、万一強制が伴ったとすれば、たとえそれが鬼ごっこであったとしても、もはやそれを「遊び」とは言わない。

ただし、次のことばが100%認められるのだとしたら、たとえ大人が「遊ぼう」と呼びかけても遊びは成り立つ。そのことばは「遊ばなーい」。遊ぶも遊ばないも、その子次第。かくも遊びとは、その本人の自発的行為なのだ。


 ぼくは、「教育」と言う言葉に対し「遊育」ということばを提唱したい。教育の「教」の字は、「教える」「教わる」のいずれもが他動詞だ。ならば、その後に続く「育」の字も「育てる」という他動詞になろう。「教え育てる」大人や国の意思を反映したことばだ。この場合、主役は子どもではない。

翻って「遊育」。「遊」は「遊ぶ」という自動詞。従って「育」も「育つ」という自動詞となる。つまり、「子どもは遊びながら自ら育つ」。ぼくの子ども観はここが原点で、もちろんこの時の主役はそれをする子ども以外にはない。

 教育を否定しているわけでは決してない。大人がムリにでも出会わせなければ、子どもは戦争や環境問題などについて考える糸口すら持てな� �かもしれない。大人が引きあわせた切り口から、その子の新たな興味や世界、可能性が広がることも多々ある。

問題なのは、圧倒的にバランスが悪いことにある。教育の価値だけを大人は認め、遊育(=遊びながら育つ)の価値をほとんど無視してきた。

 子どもの表情や動きが、遊びの中で見違えるほど変化する。そんな例をぼくは数えきれないほど見てきた。その実感からすれば、少なくとも小学校くらいまでは、教育以上に遊育の価値を優先してしかるべきだと考える。

 子どもに異変が起こっているのは「教育」の問題だと、その改革に大人は躍起になっている。

それはそれでいい。

けれど、原因はむしろ「遊育」を認めないことにあるとぼくは断言したい。

「教育」の発想だけでは限界なのだ。

なぜなら、ムリにでも出会わせられる世界は「自分」があって始めて有効だからだ。

そんな「自分」の核をはぐくむあらゆる体験の宝庫が遊びであり、国が「生きる力」を言うのなら、それは遊育の中にこそある。



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